1.ラザロの死
・ベタニア村のラザロとその姉妹達はイエスと親しい交わりを持っていた。ベタニア村はエルサレムから3キロの所にあり、イエスがエルサレムに行かれる時は、いつもラザロの家に宿泊された。そのラザロが病気になり、危篤になった。イエスはその時、ヨルダン川東岸で宣教活動をされていたが、そこに姉妹から「主よ、あなたの愛しておられる者が病気です」との知らせがあった。しかし、イエスの所には大勢の人たちが教えを請いに来ており、イエスはすぐには動けなかった。知らせを受けてからなお二日そこに滞在され、それからベタニア村に行かれた。イエスがベタニア村に着かれた時、ラザロは既に死んで四日が経っていた。恐らく、イエスが知らせを受けられた前後にラザロは死んだのであろう。
・ラザロの姉マルタは、イエスが来られたとの知らせを受けて村の外まで迎えに行き、イエスに言った「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」(ヨハネ11:21)。どうしてもっと早く来て下さらなかったのですか、あなたさえいて下さったら弟ラザロは死ななかったでしょうにと、マルタは恨み言を言った。それに対してイエスは答えられた「あなたの兄弟は復活する」。ラザロは死んだが生き返るとイエスは言われた。これはマルタには信じられない言葉だった。当時の人々は終わりの日の復活は信じていた。しかし、死んで四日も経ったものが、今ここでよみがえるとは信じられない。だからマルタは言った「終わりの日に復活することは存じております」(11:24)。しかしイエスが言われたのは、終わりの日の話ではなく、今ラザロは生き返るということだった。
・「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(11:25-26)。イエスはラザロが重い病気だと知らされた時に言われた「この病気は死で終わるものではない」(11:4)。この病気は死には向かわない。死には向かわずに命へ、勝利に向かう。神には出来ないことはない、死んだ人をよみがえらせることも神には出来る、これを信じるかとイエスは言われた。死んだ者が生き返るなど聞いたこともないし、見たこともない。誰が信じることが出来よう。マルタも信じることは出来なかった。だからマルタの答えは的外れのものだった「主よ、あなたが神の子、メシアであると信じています」(11:27)。マルタは信じていない。その証拠にイエスが、「墓をふさいでいる石を取り除きなさい」と言われた時、マルタは答えている「主よ、四日も経っていますからもうにおいます」(11:39)。
2.ラザロの復活
・葬儀や埋葬の時、私たちは亡くなった人をしのんで泣く。死んだ人が、もう私たちの手の届かない陰府に行ってしまったからだ。しかし、イエスは「もう泣く必要はない」と言われた。イエスはラザロが危篤だと知らされてもすぐに動こうとはされなかった。ラザロが死んだことを知られた時に弟子たちに言われた「ラザロが眠っている。彼を起こしに行こう」(11:11)。イエスにとって死とは父の御許に帰ることであり、悲しむべきことではなかった。
・しかし、マルタが泣き、その姉妹マリアもまた悲しみに打ち負かされている様を見られ、イエスは心に憤りを覚えられた。死が依然として人々を支配しているのを見て憤られたのだ。そしてマルタに言われた「墓の石を取り除きなさい」。「四日も経っていますからもうにおいます」と答えたマルタをイエスは叱責された。「もし信じるなら神の栄光が見られると言ったではないか」。「何故信じないのか、信じる者には何でも出来ると言ったではないか」。そして人々が石を取り除いたのを見ると、墓に向かって呼ばれた「ラザロ、出てきなさい」。死んで葬られたラザロが手と足を布で巻かれたままの姿で出てきた。
・イエスは息子を亡くしたナインの母親に「もう泣かなくとも良い」と言われた(ルカ7:13)。ヤイロの娘が死んで泣き悲しむ人々に「泣くな、死んだのではない。眠っているのだ」(ルカ8:52)と言われた。聖書は私たちに問いかける。「私たちも復活する。私たちの人生は死で終わるのではない。あなたたちはそれを信じるか」と。
3.私たちは死を超えた命を信じるのか
・マルタは死者のよみがえりを信じなかった。旧約聖書には死者のよみがえりの思想はない。人は死んだら陰府に行く。陰府は沈黙の国、忘却の地だ。死んだ人とはもう会えない。だから人が死ねば、みな泣く。私たちは死んだらどうなるのだろうか。誰もわからない。死後がわからないから、世の中の人は言う「食べたり、飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(1コリント15:32)。この人生は死んで終わりなのか、それとも死を超えた命があるのか。私たちにとって最も知りたい問いだ。
・この問いに対してイエスは言われる「私を信じる者は死んでも生きる」。ここで言われていることは肉体的な命ではない。ラザロは生き返ったがまた死ぬ。奇跡とはラザロが生き返ったことではなく、ラザロのよみがえりを通じて、不信仰者のマルタが信仰者に変えられたことなのだ。
・私たちはこの地上を「生ける者の地」、あの世を「死せる者の地」と考えているが、真実は違う。全ての者が死ぬとしたら、この地上は「死につつある者の地」なのだ。しかし、イエスを信じる時、死の先の生命が広がる。何故ならば、死んだラザロがよみがえったことを通して、神は必要な時には死者も生かされることが示されたし、何よりもイエス自身の復活の事実が、死を超えた世界があることを示している。この時、地上が「生ける者の地」に変わるのだ。
・イエスは命の源である神から遣わされた。私たちがそれを信じる時、死とは神のもとに帰る出来事になる。神に帰るとは命に帰る事であり、死は全ての終わりではなくなる。そして死が克服された時、私たちの現在の行き方が変えられる。死を恐れる必要がなければ、もう恐れるものは何もなくなるからだ。多くの人々はベタニア村で起こった出来事を歴史的出来事と信じることが出来ない。信じない限り、死は私たちを支配する。ラザロが復活したことを文字通り信じた時のみ、私たちは死から解放されるのだ。でも信じることが出来るか。
・今日の招詞にマルコ9:23−24を選んだ。次のような言葉だ「イエスは言われた。『できればと言うか。信じる者には何でもできる』。その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のない私をお助けください』」。
・イエスのもとにてんかんに苦しむ子を持つ父親が来て、息子の病をいやしてほしいと頼んだ。その時、息子はイエスの前で地面に倒れ、転びまわって泡を吹いた。イエスは父親に「いつからこのようになったのか」とおたずねになった。父親は答えた「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、私どもを憐れんでお助けください」。それに対して言われた言葉が今日の招詞だ。「できればと言うか。信じる者には何でもできる」。父親は答えた「信じます。信仰のない私をお助けください」。父親は子供の病気を治してほしいと思ったが、その前に自分の不信仰が直されなければならなった。問題の根源は人にあるのではなく、信じることの出来ない自分にあることに気づかされたのだ。この不信仰な私を助けて下さい、信じることのできない自分を助けてください、この切実な求めが答えられ、てんかんの子はいやされた。そのいやしにより、父親は信じることの出来る者、永遠の命を持つ者になった。
・「いわしの頭も信心から」と世の人は言う。しかし、信仰とは「いわしの頭」を無理に信じることではない。そうではなく、信じることの出来ない自分がいることを認め、信仰を与えて下さるように祈り続けることだ。その祈りは答えられ、不信仰なマルタが目の前でラザロの復活を見てイエスの前に跪き、不信仰な父親に信仰が与えられるという奇跡が起こる。繰り返すが、奇跡とは死者がよみがえることでもなく、てんかんの病がいやされることでもない。奇跡とは不信仰者が信仰を与えられ、永遠の命を生きるようになることだ。してこの奇跡は毎日どこかで起きている出来ごとなのだ。